約束違反に激怒したのは家康の方だった
史記から読む徳川家康⑫
信玄が恐れた武将たちの連携
信玄が懸川城攻め、さらには氏真の殺害を強く要求したのには理由がある。
信玄の駿河侵攻は、今川・北条・武田による甲相駿(こうそうすん)三国同盟と呼ばれる同盟が破綻していたことを意味している。義元亡き後の今川家に見切りをつけた信玄は、侵攻に先立ち、嫡子・義信(よしのぶ)の嫁となっていた今川氏の娘を駿府に送り返した。さらに、侵攻に反対する義信を切腹させた上で、駿河に軍勢を動かしている。
信玄は、北条氏と今川氏とが再び連携し、さらに家康と北条氏までもが結びつくことを警戒していたようだ。そうなると、甲斐(現在の山梨県)の北方で睨(にら)みをきかせる宿敵・上杉謙信(うえすぎけんしん)が再び信玄の前に立ちはだかる恐れが出てくる。つまり、北条、今川、徳川、そして上杉による信玄包囲網が形成されることもないとはいいきれない。
そのため、信玄側の事情としては、北条氏が出陣する大義名分となる氏真を殺さなければならなかった。家康が氏真を討ち果たせば、北条氏が支援する理由がなくなる上に、家康と北条氏との間に敵対関係が生まれるかもしれない。そんな計算が信玄の頭の中にはあったと考えられる。
氏真討伐を急かすためか、信玄は家康が懸川城を包囲するやいなや、家臣の秋山信友(あきやまのぶとも)を派遣し、見附(みつけ/静岡県磐田市)に陣を張らせている。
家康はこれを圧迫と受け取らず、大井川を境に切り取り次第とする密約の重大な違反である、と抗議した(『三河物語』)。これを受けて、信玄は陳謝する書状を出し、すぐさま信友を撤兵させた。戦国武将たちを「甲斐の虎」と恐れさせた信玄を相手に、家康は一歩も引かなかったらしい。
信玄の駿河侵攻に際し、氏真は妻を輿(こし)にも乗せられず徒歩で逃げたという。氏真の妻は北条氏康(ほうじょううじやす)の娘であったことから、氏康は信玄の振る舞いに対し、激しく反応。翌1569(永禄12)年1月、懸川城に対して援軍を送るなど、北条氏は氏真支援に乗り出した(「北条氏照書状」)。
出陣してきた北条軍と武田軍による対陣は続いたが、同年4月に上杉軍の南下を恐れた信玄は撤退した。一方、家康の懸川城攻めも度々激戦が展開されたが、長期化。やがて家康が和睦を申し入れ(『松平記』)、終戦となった。このとき家康は、城を明け渡せば駿河を回復するとの条件を提示したという(『徳川実紀』)。
氏真は、同年5月15日に懸川城を退去(『歴代古案』)。降伏後、氏真は海路で駿河・蒲原(かんばら)に向かい、後に北条氏の領土である伊豆の戸倉(静岡県清水町)に移った(『駿河志料』『家忠日記増補追加』)。
氏真の命を奪わなかった決着に対し、今川家家臣は無論のこと、北条氏からも「(家康は)情けある大将かな」と賞賛されたという(『徳川実紀』)。
戦国の名門・今川氏はここに終焉を迎えた。生き延びた氏真は、その後も数奇な人生を歩みながら命脈を保ち、その系図は明治まで続くこととなる。
- 1
- 2